昭和40年10月01日 朝の御理解
何の稽古でも同じだと思いますが、本気で信心をさせて頂いておるものの中に、本気で信心の稽古をさせて頂く、本気で信心の稽古をさせて頂こうと、こう思うておるものがどのくらい有るだろうか。おかげを頂きたいと思って参ってくるものはあるけれども、本気で信心の稽古をさせて頂こうというものは少ないです。ですから、何時までたっても信心が自分のものにならない。
十年たっとっても、二十年たっとっても、やはり拝み信心であり、お参り信心でありただ、おかげを頂くということだけ。もう一つ何の稽古でも同じです。ね。例えばほんなら、もう、大工なら大工と、左官なら左官というようなその、仕事を自分のものにするためには、五年なら五年、七年なら七年という間を、ほんとにあの、血の出るような、ある意味合いでは、その修行を致します。
かたそばおるようじゃいかん。ほんとその事に専念する。ここには信心の稽古に来るところと仰るけれども、ほんとにここに信心の稽古に通うてくる人が、どのくらいおるだろうかと。本気でその事に専念させてもらい、稽古させてもらったらもっと信心がその、銘々のものになっとかなければならない。御教えを頂きますから、段々高尚にはなるけれども、おかげを頂くことの、こつ合いぐらいは覚えていくけれども、ほんとの信心は一つも身には付いていない。信心を自分のものにすると。
そのためには、やはり、信心の稽古を、本気で一つさせて頂こうという気にならなければ、私はおかげは受けられんとこう思うのです。先月の一日、今月は、いよいよ自分の心の中にある、卑しい心に取り組もうと、何人、その卑しい心に、本気で取り組んだものがあるだろうか。信心で言う、卑しい心。様々なその卑しい心のすべてに、自分の心の中に取り組んでいくということ。そこからです。
その稽古に取り組ませて頂くということ、そこから私は稽古させて頂くものじゃなからなければ分からない有難さも、または懐剣もいわば修行の尊さということも分かってくるのです。特に信心はそうした何かの一つの稽古一つの修行なり、勿論何の稽古にだって、今まで申しますように、修行の伴わない稽古事ってありはしません。必ず修行が伴うただ、おかげ頂くために修行しよるとだったら、それは信心の稽古じゃないです。
たいした稽古にゃならんです。毎日お参りさせて頂きよるけれども、それが一つ惰性のようになってから、ただ通うてきよるだけじゃ、稽古にはなりよらんです。ね。その事に取り組んでです。例えば今日一日なら、今日一日の御教えに取り組んで、その事を自分の心に掛け続けさせてもろうて、様々なときにそれが現れてくる。そこになるほどという、その合点の行くようなおかげも、神様を身近に感じることも。
いわゆる、信心を自分のものにして行くという有難さが分かっていくのだけれども、それを私は稽古しなかったら駄目だと思う。絶えずこう点滅しておるいわばイルミネーションですよねえ。なんかこう点いたり消えたりしてるでしょう。そういう働きというものがこう。ですから、やっぱりそれが、みんなの目に付きますよね。私共の心の中にもです。そういう生きた働きというものがあっておらなければいけない。
それに神様の目が止まらんはずがない。そういうように自分の心の中に、そのこう点滅しておるようなです。生き生きとした働きというものが、絶えず忘れてこなければならない。死滅してこなければ、一貫して、例えば私はここに修行している方たちに言うんです。金光様の信心は、先ず座ることから。ね。だから、御広前におるときだけは、一つ座れと。足が痛かろうけれども、痛いなら立ってから、一時そこいらを散歩してからでもまた座れと。足を投げ出しておったりいたぐらみしたり、ね。
例えばその足が痛いと感ずるその事が修行なのだと。はあここを辛抱することが修行だと。このくらいの修行だから出来ん事はないでしょう。例えばほんなら修行生の方たちが、自分達の修行生部屋に引きかえり行って、そこで手も足もこう長うなす。私は言うておりましたんですがねえ。自分達の修行生の方たちの、もう何時もかつもほんなら、自分達の部屋にいっときゃあしが投げ出されるきんといって行くのじゃいかん。
例えばほんなら午前中なら、午前中ですから先生が御結界に奉仕しておられる間は、御広前に奉仕をすると。そして例えばというふうに自分の心に一つ定めるもの、そこからです修行させて頂く事の楽しみも、喜びも又は神様を身近に感じる事の出来る、私はそういう所からでもいいのです。そう難しい事じゃないでしょうが。ね。そこん所を私は行じようとする修行生衆がなくて、信心が解る筈は絶対にありません。
話を聞いて耳が肥えるだけです。耳だけは肥えて心が肥えん可笑しいでしょうが。ね。信心を自分のものにしなければ駄目です。ね。もうあの人は大工の弟子に十年も行ってあるげなけれども、かんなの掛け道も解らん、研ぎよう一丁解らんと言う様な人は先ず無いです。大工の弟子にでも行きゃ二年経ち、三年経ち、五年たてばです。段々今まで出来なかった事が出来るようになり、繰り返し繰り返ししておるうちにです。
いわゆる仕事が仕事を教えてくれると言う様な事になって来る。信心も同じ事。本気で信心の稽古をさせて頂いたらです。もう本当にその信心が信心を教えてくれるです。そう言う様な事がです。絶えず私共は、人に伝えられるようなものになってくるのです。その信心の生き生きとした体得というものがです。ね。信心しておってから信心話一つ、本当にようしきらんというのは、そら信心の稽古をしとらん証拠です。
それはもう、交的なお話ならば、それはもう水を漏らさんごとする人がある。けれどもほんなら信心話を一つ御願いしますと言うたっちゃ出来はせん。稽古しよらな出来んて。とつとつとしてから、あんまりお喋りも出来なさらんのだけれども、信心話と言う事になって来ると三十分なり一時間でも、限りなくそのお話が出来る。稽古しておるいわば信心が信心を教えている。新たな信心の境地という物がです出て来るのです。
それが正しいのです。ね。私共は心の中にどれほど生きた信心の修行がこう、電気の点滅しておるようにです。点いたり消えたり点いたり消えたり、こうしておるような働きがあっておるだろうかと。私のあの二番目の娘の愛子ですが、恐らく一日の御理解を頂いてからでございましょう。もう私のあの、大坪のめぐりと私が何時も言う。みんなが卑しいんです。食べ物に卑しいんですね。もうだからお夜食でも作ったら、誰でもはいはいと言うて、手をあげるとばかりですけれども。
やっぱりあのそれに洩れない、やっぱり愛子もそう言う様なものを持っているんですけれども、最近はもう全然間食が要らない。もうそこには間食するのが非常に多いんです。修行生の方たちが言うごと、もう椛目におんならば腹のすく暇の無かというぐらいにあるんです実際は。そらなるほど食事は二食ですけれども、その合いの手が。夕べも御祈念のあとに、沢山この枝豆をどっかでお供え頂いておったそれを、そこで皆んな参拝者の方たちもみんなもう、私も下がってからですけれども頂いておる。
だからその愛子も毎晩のように、それを手を出したりお菓子を出したりする様な事があるんですけれども、そういう奉仕だけはするけれども奉仕が済んだら、自分はそこの他んところへ行って、他の御用をさせて貰っておる。けどもそこで皆んながそこでいっぱい、その豆を頂いているんですよね。枝豆をそれはもう自分の行のように思っておるんでしょう。必ずこの朝晩のテープの整理を致します。
朝ちゃんと、直ぐ掛けられるように、自分が朝の御理解から、晩の御理解を、一遍通り聞いて、そしてそれを、直ぐ掛けられるよう、に何時もしておるんです。皆んなが底板だいとるんですけれども、話しておる時はここへ来てから、そのテープの、整理をしておるんですね。それでこれはもう私としてから、一緒に頂かせたいと、いう気持ちがあるんですよ、やっぱり。ね。
けども本人はそれを修行として、頂いておりませんから、それを破らせるわけにも行きません。ま尊いことであると思うて、ま何時の場合でもどうぞ、修行が成就致しますようにという、祈りを持たせて頂く訳なんですけれども、昨日もその事をちょっと思わせて頂いたんですね。そしたら私の部屋にこの頃もう花が全然ありませんが、あのう二、三日前、関さんが綺麗なあのバラの花を持ってきて頂いておる。
それを小さい花瓶に、床の隅のほうに一輪入れてある。真っ赤なバラである。部屋の中にね活きた物があるということは、非常にその部屋を潤いやら、生き生きとしたものにします。そして一番初めに目に止まるものは軸でもなからなければ、その置物でもない額でもない、さあ初めに目に止まるのは、生き生きとした花それなのです。それを頂くんです。有難いことだと思うですねえ。
例えばほんなら昨日、そこで豆を頂きよったのが二十人あまり、例えば居ったと致しますか。その二十人の中にです、一番初めに神様が目を止められるならば、愛子のこの修行して居る姿に目を止められたに違いないと私は思うです。しかもです一人修行していることによって、御広前全体が生き生きしてくるのです。みんなが卑しいことにだらしのないというわけでもないですね。
例えばそのそういう場合。けれどもですやっぱりいうならばだらしなく、御広前で豆をむしゃむしゃみんなが食べておる。いらんおしゃべりなんぞしてから、あの頂いておる。ああこん豆食べたなら、ビールが欲しゅうなるねと、言うたごたる風な話どんしてから頂いておる。一人はそれを頂かないことを修行として、ここで生き生きとした御用が出来ておるとするなら、それに目が止まらんはずはない。
それにただそれだけでお広前が支えておる様な感じがする。私は修行生の方達に言う。あんた達がそこでいたぐらみをしたり足投げ出したりしたら、もうお参りしに来る人たちが、一番最初に目に付くじゃないか。ね。そこでは私がきちっとして座りなさいと私が言う。所が中々出来ませんです座りつけてない。けども金光様なまず座る事からとさえいわれとる位だから、その事を修行させて貰いなさいと私は言う。
人に自分だけではない。人に与える事まで違うてくる。生き生きとしてきちっとして、例えば御用が出来ておる、その事でなるほど信心の何かその良いものを皆んなに与えることが出来る。ね。と言うて一服してはいけんというのじゃない。自分達の例えば自分達の部屋なら自分達の部屋に下がらせて頂いてから、時には足も投げ出すが良かタバコも吸うが良かろう。けれど修行の場を持って、いわばそういうろくそなことで乱したりしては、修行の場が修行の場に、らしくないのだ。
というふうに申しますようにです。それが事実ここに見かけられる。私の方では例えば、私が先月の一日にそれは心の上のことは知りませんけれど、形の上のことで修行を頂き抜いたのは愛子一人でしょう。自分の好きなものがありゃ人が見よらんなら、つまんででも食べたいのが卑しい心。誰にでもそういうものがある。けどもそれをですそれを抑えるというか、それを修行とさせて貰うとかどうでしょう。
神様は見てござる。人間は見よらん。もうちょいとあればっかりじゃいけんによる、黙ってたらつまんだぞというふうに、見てござるに違いはない。ね。それがどのくらいその人が信心にマイナスになるか分からんのです。その人の自分のその人の心を責めないはずはないです。ああ自分ちゃどうしてこげん汚なか人間じゃろかち思うてから、自分自身を自分で責めるです。責めなければならん。
用心せよ心の鬼がわが身を責めると仰る。人の目の前だけでは、立派にしておっても、ね。けどもそれが今度は反対に出けていく時です。それは部屋の中に一輪の花が飾ってあるようなそれのようなもの。生き生きとして神様の目に止まらんはずがない。ね。人間の見た目の上においてもそれである。私信心を自分のものにするためにです。そのくらいの修行は、お互いがなさねばいけんと思うですねえ。
でないと信心が信心を教えてくれるといったようなもの、例えば、椛目の中だけではなく、それがそれを教えてくれると、次のものを。実習補習が楽しゅうなるという信心でなからなければ、信心は上達しません。
信心が自分のものになってから、頂くところのおかげでなからなければ、本当のおかげじゃありません。何十年続いておるけれども、ただ。おかげを、ま、いうならば、おかげを頂くためにもお参りはしてきておる。それが惰性のようにしてお参りしてきておる。稽古は、いっちょんしよらん。話は聞くばっかり。肥えるのは耳ばっかり。心は一つも肥えよらん。ね。力は一つも出来よらん。
なるほどそれで、おかげは頂きますけれども、それはいわば目先目先のおかげのことだけであって、ね。信心の徳が育たない。今月はいよいよ十月です。なんと言うても十五年の祈念祭という、そこに焦点を置く以外にないでしょう。御造営、御造営と、なんか知らんけど、御造営に終始してしまってるような感じ。記念祭と言ったような事があんまり、皆んなの心の中にない。記念祭、記念祭と、しかも十五年間の節の年である。ね。ですからこれから、ま十五日間ある。
十六日ですから。その十五日間だけでもです。いわばその記念祭のためにです。ね。いわゆる日にちを切ってするということはね、まあ大抵無理な修行でも出来るもんですよ。ね。ですから自分のほんとに十五日間だけでもです。何か銘々自分の心の中に誓わせていただくものがあって、記念祭、記念祭、記念祭と心の中に念じさせて頂く、それが修行の姿に現れて来る位な修行をさせて頂くおかげを頂いたらどうでしょうか。
記念祭を頂くときの、いわば喜びが違う。感激が違う。なぁんも修行もなぁんもせんなり、ただ記念祭を拝んだだけじゃいかん。ほんとにこの記念祭を頂くために、十五日間、この修行をさせて頂いたということがです、どのくらい、記念祭を記念祭らしくです。また、自分の心にも、記念祭らしい、いわば、感激を頂くか分かりません。それが、信心の喜びなんですから。
それが自分のものになったと。このくらいの修行でもさせていただきゃ、このくらい神様が喜んで下さるんだという体験が生まれてくるんですよ。どうぞ今月は、なんと言っても、椛目にご縁を頂いておるものの全てがです。記念祭に焦点を置くより他にはない、その信心でするより他にはない。そんなふうに思うんですね。
どうぞ、おかげを頂かれて下さい。